大学における基礎研究の意義について
3回目の更新になりました。くわちゃです。
昨今、国策として国立大学での人文社会学系の学問分野の規模縮小が取りざたされています。
この件に関して、思うところをつらつらと。
その背景には、国が税金としてお金をかけて学問に『投資』した以上は、目に見える形で社会に還元しなければならない責任が学問にはあるという論理があるのではないかと思います。
そして、その目に見える形で社会に還元できる学問の『成果』として一番最初に考えられるのが、お金になるということです。
つまり、税金として『投資』したお金以上のお金が社会に対して還元されること、これを国は期待しているといえます。
しかし、学問とは本来、短期眼的な収益を得ることを目的とした『投資』の対象となるようなものでしょうか?
研究の学問的意義とは、果たして社会に還元しお金になることだけなのでしょうか。
これは違うのではないかと思います。
確かに、すぐにお金になる成果が得られるような研究は、即時的に社会に還元するという意味で、素晴らしいとは思います。
しかし、全てが全てそういう研究ではないし、すぐにお金にならないからと切り捨てていくのは違うのではないかと思います。
本来、研究の学問的意義とは、『わからないことがわかるようになる』という発見そのものにあると思います。
その成果を応用し社会に還元してお金になるという、いわゆる『社会的意義』はこの学問的意義に付随するものであり、おまけにしかすぎません。
このおまけにすぎない『社会的意義』なるものを必要以上に重要視したあまり、すぐに『成果』が得られない学問を切り捨てていくことが、今の国策として行われている基礎研究や人文社会系の学問の軽視という現実につながっているのではないかと思います。
さらに、基礎研究としての学問に金銭面含め社会的な『成果』が皆無なのかと言われると、決してそうではないと思います。
確かに、研究とは本来誰もやったことのないことをやっていく営みなので、どんな結果が得られるかはわかりません。
まさにアドベンチャーそのものです。
その上でどのような社会的な『成果』が還元されるかなど、研究の最初の段階では到底わかりようもありません。
しかし、研究の最初の段階では計り知れないような、大きな大きな社会的な『成果』が得られる可能性も、基礎研究には秘められていると思うのです。
この基礎研究には、その後の世界を変えてしまうような、無限の可能性が秘められているといっても過言ではありません。
それを、社会的な意義がわかりにくいから、すぐに『成果』が得られないからといって切り捨てるのは、おかしい話なのではないかと思います。
こうした長期スパンでの『成果』を伴う研究というものは、個々人によって行うことは到底できません。(昔の金持ちの貴族が趣味として科学的真理を探求していた時代を除く)
だからこそ、こういう大掛かりな仕事は国がサポートして、行う必要があるのではないかと思います。
そのために、国立大学法人なるものは存在しているのではないか、と。
これが大学で基礎研究が行われている社会的な意味なのではないかと思いました。
だからこそ、税金をかけてまで基礎研究は行われているんですね。
これは、すぐにお金が返ってくることを見越した株式投資などとはまた違った次元の話で、すごく長期スパンな成果を期待した『投資』です。
だからこそ、短期的な利益があげられないからといって、その『投資』をやめてしまうのは問題ではないかと思うわけです。
ゆるふわな記事を書くつもりでいましたが、今回も難しいテーマになりましたね。
次回はどんなテーマの記事になるか。乞うご期待ください。